福生の橋

福生ミニ辞典

山梨県笠取山を源流とし、羽田沖の東京湾までつづく多摩川。
そして、多摩川の羽村の堰から武蔵野台地を横切って四谷大木戸まで流れる玉川上水。さらには、玉川上水から分けられた、福生分水・熊川分水と福生の街は水風景の豊かな地でもあります。その流れに架かる橋もそれぞれ歴史と特色を有し特に「新堀橋付近」は「新東京百景」の一つにも選ばれた景勝で武蔵野の面影を今に残しています。また、「ほたる祭」の時期になると「青梅橋・福生橋」などでは、ほたるの姿を見ることもできます。

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  • 新堀橋

    新堀橋

    その昔、羽村境の「官林稲荷」から右手を多摩川沿いに「宝蔵院橋」今の「宮本橋」に水路が続いていました。この間の約360mほどの所が大水の度に上水の土手が崩れ、そのつどの復旧工事費用は、並々ならぬものでした。元文5(1740)年の夏、幕府は思いきって現在のように上水の堀替え工事を断行しました。
    地名から『馬喰(ばくろう)橋』とも『神明(しんめい)橋』とも呼ばれました。素朴な作場道でしたが、今は、歩道や欄干に趣向を凝らし、6月には優雅な蛍の舞う姿が見られて、新東京百景にふさわしい風情があります。

    ◎竣工=昭和61年3月
    ◎橋長=19.70m
    ◎幅員=9.80m
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  • 新橋

    新橋

    かつて、五日市(あきる野市)方面から福生に通じる都道95号線は、たいへん狭く曲がりくねっていて、自動車がすれ違う時などは、一旦停止しなければ通行できない状態でした。
    昭和27年4月、福生町・多西村が共同提出した「永田橋架橋に伴う路線新設請願」(福生駅前より玉川上水を渡り、新設多摩川架橋《永田橋》に至る延長550メートルを一直線に新設願いたい)は、東京都議会に採択されました。
    その後、昭和32年9月28日に着工した都道第95号(五日市・所沢線)改修工事は多摩川に架ける永田橋(長さ241.5メートル、幅6メートル)及び玉川上水に架ける「新橋」の二橋新設を主な工事として、その間を総延長316.4メートルの道路で結ぶ総工費1億760万円を投じて、昭和36年3月31日にめでたく完成し、4月25日落成式が行われました。
    現在は、都道第165号(伊奈・福生線)と改称され、また、新橋は、昭和41年3月に一部改修され今日に至っています。

    ◎橋長=12.4m
    ◎幅員=7.50m
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  • 牛浜橋

    牛浜橋

    現在の“牛浜橋”は、昭和52年3月に架け替えられたものです。牛浜橋は、東京と秋川上流地域を結ぶ五日市街道に架かる橋なので、馬車や牛車の往来が頻繁なため在来の木橋では破損が多く、管理費の負担は大変でした。
    明治初期に新政府は、東京市の近代化を図るために、熊本より石工を招き、二重橋をはじめ木橋を洋風の眼鏡橋に架け替えました。これを見聞した村民が牛浜橋の建設に取り入れ、明治10年12月に建設された牛浜橋は、めがねばしと愛称されました。
    平成4年度に行われた、玉川上水橋梁群整備では、牛浜橋は親柱や高欄に石と鋳物を用いて歴史的背景を考慮した整備がなされました。

    ◎架替=昭和52年3月
    ◎橋長=12.6m
    ◎幅員=11.3m
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  • 五丁橋

    五丁橋

    福生院の山門から奥多摩街道を越えて東に向かい、五日市線・青梅線の踏切を過ぎると玉川上水で、ここに架けられたのが五丁橋である。橋を渡ってハケ上の武蔵野台地の一角に「五丁山」と呼ばれた山林があったようで、これが橋名の由来ではなかろうか?
    定かでないが、かつて「念仏(ねんぶつ)橋」と呼ばれた時もあった。橋のほとりに「三界万霊塔」と刻まれた慰霊塔がある。崩れて建立年次も施主名もわからない。あるいは入水者への供養の建碑ではとも思われ、それゆえの「念仏橋」とも考えられる。延宝四(1676)年の検地帳に「念仏塚・念仏どて上」の地名も見え、かかわりあることではとも考えられる。
    村持ちの作場道(さくばみち※村有の橋)でもあり、それまで幅3.60mのものを昭和39年3月に架け替え、長さ11.07m、車道6.70mのコンクリート永久橋とした。所在は熊川539番地先。さらに東に向かってわらつけ街道(国道16号線)と交差して殿ヶ谷(瑞穂町)に通じる。

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  • 永田橋

    永田橋

    江戸時代、享保19(1734)年に作成された『福生村指出し明細帳』に「『川 舟』壱そう。右ハ草花村ヨリ当村え入作仕リ当村ヨリ草花村え入作仕リ候ニ付出水ノ節こやし渡舟ニ致置候。」と記されています。また、寛政11(1799)年の「福生村書上帳」には「『渡舟場』1カ所あり、多摩川沿い石河原で、平素は川幅凡そ60間余り。出水の節は舟を用い冬は土橋を架ける水深二尺五寸余り。」とあります。
    さらに明治21年『福生村村誌稿』に「『福生渡』所在は、村の西部、本村と草花村を結ぶ里道の間、多摩川にあり、水深3尺、舟は常備壱艘。毎年11月より3、4月の頃迄幅6尺の橋を架ける。」とあります。
    近隣諸村から夏・秋二度新穀を取纏め費用に当てていましたが、明治8年9月(1875年)官許の渡場となる。「賃取り渡船場」(有料)としての運営は、村民の請負入札制で、昭和11年2月時の渡船賃は「十歳以上一人金壱銭。荷積小車、挽子共金参銭。荷積牛馬車、同金五銭。人力車、同金参銭。自転車、人、共金弐銭」(右は平時の賃金値段で増水の際は別に決めた)でした。
    太平洋戦争の敗戦の後、疲労困憊の中での、キャスリン台風の猛威には、哀れ永田橋全壊し流失します。昭和22年9月15日でした。当時の福生は、米軍横田基地が存在したため、とりあえず、仮橋として橋脚コンクリの板橋長さ151.00m、幅3.6mができた。その後、東京都は都道95号線(五日市~所沢線)の改修工事として永田橋、長さ241.50m、幅6mを昭和32年9月着工し、36年3月完成した。総工費1億760万円でした。(玉川上水の新橋新設とその間を結ぶ道路開設費とも)現在は、都道第165号線(伊奈~福生線)と改称されています。

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  • 加美上水橋

    加美上水橋

    昭和2年、大正天皇の陵墓「多摩御陵」造営のため、多摩川石の採取が行われました。この輸送のために福生駅から羽村境(福生河岸駅)までの1.8Kmの砂利運搬用の鉄道が布設され、当時は、青梅電気鉄道株式会社経営の”青梅線”でしたが、昭和19年4月1日、国鉄に買収移管されました。
    造営終了後も砂利採取は続けられましたが、昭和37年2月10日、貨物線としての使命を終え廃線撤去となりました。この時、玉川上水に架けられた鉄道橋は”ガード”と愛称され、廃線後もそのまま人々に利用されていました。
    昭和59年10月1日、新堀橋付近の玉川上水風景が「新東京百景」に選ばれ、平成2年11月1日、周辺を「玉川上水旧堀跡」と福生市史跡に指定され、「加美上水公園」の開園などから、本橋の改装架替の機運が湧き、欄干のパネルその他に趣向を凝らし、橋名を改めました。

    ◎竣工=平成3年3月
    ◎橋長=13.60m
    ◎幅員=3.60m
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  • 清巌院橋

    清巌院橋

    玉川上水を開削した時、上水堀が青梅街道(青梅へ通じる道)と交差して、そこに出来たのが、清巌院橋である。橋の南にある福生山清岩院(臨済宗建長寺派)からその名をもらっての橋名であろう。
    清巌院は、応永年中(1394~1427年)の開創と伝えられる古刹で、小田原北条氏より「永四貫文の寄進(年貢四貫文を課税された土地の寄付)」を受け、徳川幕府からも「寺領十石の御朱印(年貢十石を課税された土地の寄付)」を受けていた。先年、「白鳳仏(古代・白鳳時代に製作された仏像)」の発見などからも由緒のほどが偲ばれる。
    上水に掛る市内の橋10橋(現在は15橋)の内、牛浜橋、日光橋とともに交通量も多い主要な橋で、「村持(村が維持管理の責任を持つ)」とはいえ維持は容易ではなく掛け替えの度毎に、「御通行の御村々方へ御助勢願い奉り候」と、申し入れ、援助を受けた記録が残っている。現在は、都道とし、都所管で維持される。

    ◎竣工=平成元年3月
    ◎橋長=15.00m
    ◎幅員=11.00m(車道7m、歩道4m)
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  • 青梅橋

    青梅橋

    こんな処に「青梅橋」が、と思われるでしょうが、この橋の名は、古くから「青梅~羽村~福生~熊川から、拝島~柴崎~立川」を結んだ「青梅街道(成木街道の方の青梅街道とは別)」の道筋に当たることによります。ちなみに五日市街道際の高橋さんの家号は、「青梅街道」と呼ばれています。旧福生村に属していた分は今、「銀座通り」の愛称がつけられています。
    「青梅橋」は、江戸時代、玉川上水ができた時、作場道(作業のための通路)を兼ねて作られました。村持(村有)のため、その維持は地元の負担でしたが、ささやかなものでした。
    昭和36年の橋架替前は、幅3.60mありましたが、同年4月1日、架替工事に着手し、総工費2,065,000円で4か月後の8月8日に完成いたしました。青梅橋は、市道205号線へ通じるため自動車も通り、ここを通る道は、今は「蛍通り」の愛称名が付けられて、恒例の初夏の“ほたる祭り”には近くの「ほたる公園」と結んで大にぎわいです。上水あたりを乱舞する蛍を眺める風物詩は、新名所として市民に親しまれています。

    ◎竣工=昭和36年8月
    ◎橋長=11.25m
    ◎幅員=6.75m
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  • 武蔵野陸橋

    武蔵野陸橋

    総工費2億7千万円、工期3か年間をもって国道16号線道路改修工事の結果、かつての日光橋は立体交差として総延長620m、幅員18mで、両端には歩行者の安全を確保するため2.5mの歩道が付き、昭和40年4月完成しました。
    そもそも、国道16号線(通称日光街道)は、東京環状線とも呼ばれ、都市と都市とを結ぶ幹線道路のため、近年非常に交通量が多く、また、拝島の西側でJRの踏切(青梅線・八高線・五日市線)を横断するため、朝夕のラッシュ時にはここを通り抜ける自動車がえんえんと続き、交通の混雑を極めていました。そこで、ますます混雑が予想される交通量の緩和と、あかずの踏切解消のために、都と国鉄(当時)の手によって施工されたものです。鉄道を横断する部分は跨線橋(こせんきょう)となり、道路と鉄道が立体交差となって、スムーズな交通が行われて「武蔵野橋」と命名されました。
    晴れた日の眺めは、橋の上から富士を初め、奥多摩・秩父の山並みなどが素晴らしいものです。

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  • 多摩橋

    多摩橋

    宝暦10(1760)年の『熊川村村方明細帳』には「玉川 夏は舟渡し、冬は土橋架け申し候。是は西北の方より東南の方へ流れ申し候。水上 福生村、水下 拝島村、渡舟、横八尺五寸 長六間、船頭 平右衛門、助衛門」と記され、牛浜の渡しと呼ばれ、熊川村が管理していました。明治21年の『熊川村村誌稿』には「牛浜渡、県道、西方本郡西草花村にあり、広さ凡そ百間、時として水路変替し、一定為しがたし。深三尺。常備 人馬渡船一艘。毎年冬・春の季、幅六尺余の仮木橋を架すといえども出水の次第により一定しがたし。」とあります。以前より私設でしたが、近傍庶村の便利を計るため、明治8年、永田橋とともに公認の渡津になりました。その後、明治23年5月、河川本流の移動により、対岸の草花村に管理が委譲され、以後は森山の渡しと呼ばれています。大正9年、『道交法』が公布施行されました。それまでの渡船や簡易な木橋の整備が行われます。六郷橋、日野橋などとともに、鉄筋コンクリートの「多摩橋」が出現したのは、大正14年2月のことで、長さ207mm、幅6mありました。たちまち、「五王自動車」バスが開通(福生~五日市)しています。また、この年、五日市鉄道、八高線(八王子~東飯能)が開通しました。戦後、福生飛行場に進駐した米軍が改装資材として川砂利の乱堀を続けた結果、昭和23年9月17日の洪水では、多摩橋の一部、橋脚陥没の事態が発生して交通杜絶(とぜつ)しています。応急仮橋の復旧費100万円は地元が調達したと言われています。昭和45年3月には主要地方道杉並・あきる野線7号として竣工します。橋長は202m、幅員は11.5mあり、通称道路名は五日市街道です。

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  • 宮本橋

    宮本橋

    江戸時代は、宝蔵院橋と称えていました。
    中世に創建されたという『真義真言宗巡光山宝蔵院』門前の玉川上水に架けられたので、寺名を冠した橋名であったが明治2(1869)年、住職憲道は時勢を洞察して還俗し、宮本豊恭と改め、神職に転身しました。
    今は、観音堂と墓地だけが残って、檀家の人達は改宗を余儀なくされて、神事によって祭祀を行っております。橋名もいつしか『宮本橋』と呼ばれるようになりました。
    かつては、名主家を囲んだ福生村の中心だった宿一通りとて、桧原・五日市・あきる野を経て、多摩川を渡り、上(カサ)江戸道に通じ、また、途中より箱根ケ崎・豊岡へも通ずることから往来も激しく、地元負担の架け替えに際しては、沿道ご通行の村々へも、「自力では叶い難く、ご助勢下され」との申し入れをしていた、とのこと。

    ◎竣工=昭和35年3月
    ◎橋長=11.50m
    ◎幅員=5.50m
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  • 熊野橋

    熊野橋

    現在の熊野橋は、昭和56年3月に架け替えられたものです。
    「熊野橋」は、承応2(西暦1653)年、玉川上水の開削に際し、村の農道として他の橋とともに民費で架けられました。この地は、村人が信仰する熊野権現を勧請した神域内を上水が貫流することから、いつか「熊野橋」の愛称が定着しました。
    橋畔から、美しく連なる山並みを望み、上水の流れに群れ遊ぶ水鳥の風情など、四季を通じて変わらぬ、そして飽きない眺めといえましょう。
    平成6年度に行った、玉川上水橋梁群整備では、橋名にちなんで、親柱と高欄に、歴史的背景を加味して権現造りのイメージを取り入れた改善を行いました。

    ◎竣工=昭和56年3月※平成6年改修
    ◎橋長=12.60m
    ◎幅員=19.40m
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  • 福生橋

    福生橋

    昭和33年1月号の「福生町広報」に「橋の名称を募集」の記事が掲載されていました。玉川上水に架けられる都市計画道路1・2・3号線(栄通り及びその延長)の橋梁で、540万円の工費で進捗中とのことでした。その後、3月末に完成したのが幅15mの「福生橋」で、玉川上水に架けられた橋としては最大です。
    現在の都道・新奥多摩街道(都市計画道路3・4・5号線)は、熊川地区から福生・羽村・青梅を結ぶ幹線街路で、国と都から補助金を得て完成はしたものの、道路の貫通には難関がありました。まず、国鉄五日市線の踏切や熊川駅舎・ホームの移動など、曲折があり、しばらくは旧道を迂回する始末でした。やがて、昭和35年3月31日に、警報機も取り付けられ、踏切も開通し、駅舎・ホームの改装も終ったのでした。
    福生橋及び路面の舗装等の整備も完了して、正式に都道に認定されたのは、昭和37年頃でした。

    ◎竣工=昭和33年3月
    ◎橋長=14.81m
    ◎幅員=15.00m
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  • 日光橋

    日光橋

    日光往還(国道16号線)に架けられたための命名ですが、「熊川下ノ橋、日光橋トモ云」との記録もあります。日光往還は、古来は相州大山参りの「道者道」でした。
    「八王子千人同心」が、慶安5(1652)年6月「日光火の番」役を命じられました。初めは、江戸経由で「日光道中」というコースでしたが、同年9月からは江戸へ向かわず八王子から直ちに拝島に入り、松山、佐野を通って日光に至る経路(日光往還)となりました。五街道(東海道・中山道・奥州道中・甲州道中)の「日光道中」とは別個の日光街道でした。
    大山詣もあわせて往来もにぎわい、日光橋は村持ちの橋ということで維持管理は大変でした。架替の度ごとに最寄りの村々や大山詣の道者にも喜捨を仰いだといわれます。
    明治24年7月、日光橋の煉瓦橋への架替工事が完成しました。これより前、明治10年に川上の牛浜橋を太鼓型の石橋に架け替えるに際し、中心的役割を果たした石川彌八郎氏の配慮のもと、今度は煉瓦積みアーチ型として見事に竣工したのでした。総工費1,281円68銭8厘。総幅13尺4寸、橋長42尺でした。
    牛浜橋とともに万年不朽とうたわれ羨望されていましたが、昭和25年3月、現状のように改装、架け替えされました。橋長14.70m、橋幅9.20mです。

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  • 睦橋

    睦橋

    明治35年9月の『多摩川仮橋架設始末書(作成者は熊川村関係人民総代石川弥八郎)』には、「右(「南の渡し」)は、多摩川以北、北多摩郡各村及び拝島停車場より西多摩郡秋川通り各村を経て五日市町に達する府税支弁道で、熊川村字南下多摩川本流に架設する橋梁です。維新前、年代不明の昔より熊川村の内、小字南及び内出の住民七十人の者が村役すなわち村民の責務として架設し、無賃往来していました。しかし、年々、出水ごとに川敷が移動して橋梁の位置を一定できず、また、数か村入り合いの石川原のこととて、何村の地域を流れるにかかわらず、熊川村の村役として務めてきました。維新後、旧慣に従い、なお石川弥八郎外七十人申し合わせ、篤志、自費をもって架設して、無賃往来していました。往古は土橋でしたが、近頃は諸車通行のため板橋に変更したので、年々多額の費用が掛かります。従来の慣習もあり、また、府税支弁道につき、橋代を申し受けられないのです。その筋において御架橋になる時期を待ち、義務を尽くしている次第です・・・」と述べています。しかし、明治35年8月6日、大水のため流失し、仮橋を架設しますが、9月6日に再び流失しています。翌36年3月、改めて仮橋架設を願い、その結果、長さ80間、幅8尺の板橋が工費657円93銭で完成しています。そして、昭和57年4月8日、福生市と秋川市(あきる野市)を結ぶ3番目の橋『睦橋』の開通式が行われました。この橋は、昭和53年から4年の年月と総工費16億2400万円をかけて、東京都が施行して完成しました。橋の長さは415メートルで幅は18メートル、このうち3メートルの歩道が両側についた立派な橋です。

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  • 宿橋

    宿橋

    江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』「福生村」の項に、「高札場」小名 宿にあり。と記されています。「宿」とは名主家の屋敷を中心とした村内の一地域で、紺屋・味噌屋・足袋屋・さなぎ屋・下駄屋・屋根屋・鍛冶屋・車大工・酒造等の家々を含めた村一番の集落でした。
    「福生の渡し」(多摩川の渡船場の一つ)を越えて、「上・下江戸道」「八王子道」「青梅」への道につながり、「下江戸道」の玉川上水に架けられたのがこの「宿橋」でした。
    粗末な木製の橋が、昭和11年12月に現在の鉄筋コンクリート造りの橋として竣工し、自動車専用橋として供用されてきました。昭和62年3月、調査の結果老朽化しモルタル塗装のはがれた橋面や、安全性を重視し、平成5年度に至り、玉川上水に架かる橋梁であることからも、美観を十分考慮して、旧態を尊重し修復したものであります。

    ◎橋長=12.30m
    ◎幅員=6.80m
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  • 萱戸橋

    萱戸橋

    昭和49年4月、市立七小の開校により同学区に編入された志茂・牛浜地区の子どもたちの通学路として、地元からの要望に応えて竣工開通しました。
    橋名の“萱(茅)戸”とは、古来武蔵野に自生する萱野原を指したもので屋根を葺くのに用いる“草木”の総称。チガヤ・スゲ・ススキなどをいいます。
    寛文12(1672)年ごろに、カヤト、カヤ立場の小字名が現れています。無人の萱野原を中福生、牛浜の次三男たちが開拓、村造りを始めたものと思われます。江戸末期ごろには“萱戸七軒屋(井上・清水・村野各二家と木村家)”と呼ばれていたとのことでした。橋を渡り、奥多摩街道を越えて南下する急坂を“ひよどり坂”といい、「鵯越(ひよどりごえ)」に勝る急坂だとの 戯言(ざれごと)からというが、出所不明です。

    ◎竣工=昭和51年3月
    ◎橋長=15.64m
    ◎幅員=6.6m
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  • 山王橋

    山王橋

    かつて、「山王塚(熊川1307)」と呼ばれる地(「わらつけ街道」東方向)に「山王大権現」の石塔がありました。「寛政六甲寅(1794)年」「現住融峯代造之」と刻まれていました。融峯とは、福生院第14世の住職です。寺と塚を結ぶ里道に架けられたので橋名となったものと思われます。
    塚の周辺は「山王面(約3町歩)」といい、延宝4(1676)年、旗本長塩氏知行地(支配地)の「水帳(土地台帳)」に、「改出畑(新たに畑地として認定された土地)」と書き上げられ「下畑(土地の等級)」とあります。
    開発により宅地化した現在、この石塔は、地主森田英男家(熊川605)の邸内に移され祀られています。
    かつては、熊川村村有の「作場橋(農作業等で通行するための橋)」で素朴な木橋でした。以後、改修を重ね、昭和37年3月の架替前までは、橋長10m、幅員2.7mでした。その後、さらに橋長16.5m、幅員6mに拡張されました。しかし、接続する道路は、約7mの幅員があるため1mほど橋が狭く、そのうえ橋に接して交差点があり、自動車の通行量も多く、歩行者の安全を確保してほしいとの市民の声に応えて、平成12年度に山王橋下流側に、歩道(幅2m)部分を新設されました。

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  • 平和橋

    平和橋

    平和橋は地元の方により私費でつくられ、橋畔の碑文によれば 《この橋は地元の建設推進者のご尽力により昭和47年4月に完成し、福生市に寄贈された。平和橋のいわれは、世界の恒久平和を願う趣旨をもって「平和橋」と命名された。この度、平和橋の改修に当たり当時の橋名板等をここに残すこととする。
    平成10年5月吉日福生市  平和橋  平和橋建設推進者
    寄贈者 平林寅吉  右代行 渋谷さく  右同 松本平九郎
    施行者 武田平  協力者 大野史郎  世話人 小林才治》
    とあり、この改修の結果、車道4.8m、歩道1.5mとなりました。
    昭和43年5月15日、西武線の拝島駅への乗り入れによる北口の開設によって乗降利用者は激増する。たまたま、旧陸軍の「熊川倉庫」への引き込線鉄橋があり(現在米軍施設)、これを無断利用して駅に出入りする人たちが続出した。危険この上なく、しかも「違法だ!橋を作れ!」との請願運動も起きた。しかし、当分予算化はできそうもなかった。このとき、製綿業の平林翁と建設会社社長の武田氏は、代償なしで長さ12.7m、幅4.0mの永久橋を建設した。そして、同翁は、戦死された息子二人をしのんで「平和橋」と名づけたのである。

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